透明なものへ

 

透明なものへ

入澤ユカ
INAXギャラリー2 アートニュース (2007) より転載

白磁の椀や盃を、白く広い台にいっぱい、まるで雪景のような俯瞰で見せた、2003年「INAXガレリアセラミカ」での展示や、「世界のタイル博物館」で、壁に設えられた細長く突き出す飛び込み台の先端の壷型の孤影は、いままさに空中に舞い降りようとする緊張と高揚感をつくりだしていた。

福本双紅の作品は、そこを核にしてあたりの空間や存在を、痛覚が走るように透明に染めていく。

福本双紅は陶芸作家だ、と言い切ろうとすると、かすかに躊躇する。その躊躇がINAXギャラリー2での展覧会のきっかけだ。美術大学・院で陶芸を学び、うつわ型の作品を発表し続けている福本は、確かに陶芸作家なのだが、彼女のうつわは、「透明なものへ」という凝固だ。

福本のデビューは鮮やかだ。2001年、「朝日現代クラフト展」でグランプリを受賞した。作品は鮮烈で、まさか制作歴の浅い作家だとは思えなかったが、福本の作品群からは、白熱のトランス状態という坩堝でつくりだしていって、われにかえったとき作品が出現しているような、天性の感覚と膂力があった。

もうひとつ特徴的なことは、福本のうつわは、一気に長い伝統の有名店のブランド品の商品オーラのような、欲望の輪廻を何回もかいくぐった妖艶さのようなものも放っていた。

そしてもうひとつ、福本の一個一個のうつわは、ひとがたに思えることがある。壷の胴体に盃の頭部を抱いた作品もあるが、椀のひとつひとつが、ひとがたに見える。縁のかすかなウエーブ、藍の濃淡の痕跡が呼吸のリズムでリアルに迫ってくる。

白熱が沸点まで達して、結晶を作りだすように制作する福本双紅だが、高校まで美術や工芸と無縁だったという。やがて地霊に押されるように陶芸を選ぶ。陶芸は日本的だと思えたからだという。選びながら陶芸の重さ、不透明さ、土っぽさが嫌いだった。ガラスの方が性分にあっているが、ガラスには大きな装置が要るのでと、陶芸になったという。「陶芸」を重く不透明で、日本的だと感じる混沌とした無意識量の膨大さが、磁器で透明さを表現したいという、作家の核になっていく。

今展では、白磁の円弧のかたちを宙吊りにするという。月の満ち欠けを想像させる。

ずっと福本の作品名は、うつろいゆく気象や現象をあらわすもので、満ち欠けや陰影、透明感や凛然としたさまに向かっている。「うすらひ(薄氷)」「うす雲」「月影」「雲」。

彼女の作品をたどる私の妄想には、いつか透明というものに憑かれて陶芸というジャンルを越えてしまうのかも知れないのではという、畏れとあこがれが兆している。

白や透明さ、円弧の無限の変容の、うつろいゆくまぎわをとどめようとする福本双紅は、10月の白い画廊空間に玲瓏な月、たなびく雲、うつろう透明な光をつくりだす。
 

 
 

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